tokyo.sora(Δ版)

久々に、ブログ内の整理が進んだのでバージョンを上げます。日々のことを徒然と。映画の感想が多いですが、決して映画ブログではありません、 坂探索は、ケイゾク

正義のゲキリン

R25 3月17日号の巻末に石田衣良さんのコラムに思うところが書いてあったので、そのまま全文掲載します。
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空は、今日も、青いか?
第124回 正義のゲキリン

どうやらみんな、正義が大好きなようだ。それもびっくりするくらい絶対的な正義が好きなのである。
先日京都大学で携帯電話をつかったカンニング事件が発覚した。逮捕されたのは一浪の受験生で、ふたり暮らしをしている母親に、どうしても経済的な負担をかけたくなくて、国立大学に進学したかったという。
外務大臣政治資金規正法で禁止された外国人からの献金を受けていたため辞任した。泥舟になった内閣から早々逃げだし、自らの政治生命を延ばすための計画的な辞任だという解説もある。まあ、ことの真偽はともかく、献金の相手は幼いころからいきつけの焼肉店の女性店主で、応援のつもりで年に五万円ほどの送金を続けていたらしい。
大相撲では、力士の携帯電話から八百長を示すメールが発見され、たいへんな騒ぎになっている。神聖な国技・大相撲で八百長はけしからん。集中豪雨のようなバッシングが相撲協会には集中した。すべての膿をだしきるまで、本場所の開催は見送られることになりそうだ。
これはいったいどうしたことなのだろう。受験と外交と国技。一見ばらばらで、つながりなどないようだけれど、実はどれも日本人がひそかに関心を寄せており、社会にとって重要だと考えるテーマなのである。
それにしてもだ。一受験生を偽計業務妨害の疑いで逮捕したり、つぎのホープと目されてた外務大臣が二十万円というわずかな献金で辞任したり、一部の八百長騒ぎで大相撲の存続まで危ぶまれたりするというのは、いささかいきすぎではないだろうか。大人の良識というのは、いったいどこへいったのか。
この国の成長がとまり、給料があがらなくなってから、ぼくたちはやけにおたがいに対して厳しくなっている。二十一世紀にはいってこのかた、窮屈でいきづらい社会で息を殺すように生きているのだ。目立たず、騒がず、道を踏み外さず、心を凍らせて。どうして、そんなふうにちいさくなって生きているのかといえば、ひどく敏感になった正義の逆鱗にふれることだからだ。
一度、社会の逆鱗のスイッチがはいったら、もうまともな理屈や常識などおかまいなしである。容赦のない攻撃に徹底してさらされることになる。理由などあやふやでもかまわない。なんとなくあいつは悪いやつだ、嫌なやつだという程度の社会的な空気感で、血祭りにあげられてしまうのだ。
話題になった若手の歌舞伎役者へのマスコミのあつかいを見ればよくわかる。彼は本来被害者だった。それでも、おもしろおかしく海老蔵伝説をつくりあげられ、釈明の機会も与えられずに一方的な中傷に耐えなければならない。彼の家は実はわが家から二百メートルと離れていないので、騒ぎの渦中の各マスコミの張り番のひどさは何度も目撃している。
というと、マスコミが悪いという人もいるだろう。だが、マスコミはその国の国民を映す鏡だ。そんなものくだらないと誰もが判断するなら、テレビも新聞も週刊誌も決して、カンニング事件や外相の違法献金や大相撲の八百長などとりあげることはないのである。受け手の側の程度を、マスコミは忠実に映しているだけなのだ。
問題は法律でもマスコミでもない。ひとりひとりがもっている正義の逆鱗である。ふれたら一瞬で怒りをたぎらせるようなスイッチをもつなんて、R25以上の大人なら恥ずべきことである。みんな、他者に対してもっと穏やかな目と広い心をもとう。誰もがそんな寛容の精神をもつようになったら、この国の息苦しさも半減するはずだ。

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このコラムを見たときおいらの思っている通りのことが書いてあったので、他にも同じことを考えている人がいるということで安心しました。
こういうこと言うと、「時代が変わったから」とか言われるが、それじゃあまた時代を変えればいいじゃないかと思う。何をそんなに急ぐのか、何をそんなに許せないのか。おいらにはよくわからないし、わかりたいと思わない。
守るべきものは守るし、正すべきものは正す、反省するべきものは反省する。それで、いいんじゃないんでしょうかね?必要以上に相手を追いつめてもそこから何にも生まれない。もう少し寛容でもいいんじゃあないでしょうか?


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