tokyo.sora(Δ版)

久々に、ブログ内の整理が進んだのでバージョンを上げます。日々のことを徒然と。映画の感想が多いですが、決して映画ブログではありません、 坂探索は、ケイゾク

六本木アートナイト2023。

最近は、更新が遅れてすいません。
先週の日曜(5月28日)のこと。

 

六本木アートナイトに行ってきました。
といっても、最終日の午後からなので、たいして回ってはいないですが、アートナイトいうぐらいなので、5月27・28日と夜通しで行われているイベントです。
廻ったのは、ホントに極々一部なので、それを紹介して行きます。


まずは、六本木ヒルズから

 

エマニュエル・ムホー/100 colors no.43「100色の記憶」
100色で彩られた層が織りなす、記憶ぉたどるインスタレーション
小さな数字が幾重にも重なり合い、年号が浮かび上がります。
西暦が刻まれた100色の層は、奥に流れるにつれて年月が遡る「記憶」を視覚化します。
一番手前の2023年現在の新たな記憶を「白」で表現し、
100色のグラデーションが過去の時の流れを演出します。
この色とりどりな記憶の空間に人々が集まり、思い出に想いを馳せる場所となりますように。


国立新美術館を目指しながら、第1レーヌビル。

 

岩崎貴宏/雨の鏡
戦後の焼け野原から復興、高度経済成長、バブル景気と崩壊、そして失われた30年。
そのスクラップ&ビルドによって変化し続ける象徴的な都市、六本木。再開発を待つ
空き地の中、五月雨が作る澱みは、移ろいゆく時を映し込み、彼岸と此常を繋いでいるかのようです。東の間に出来たこの空き地も、水たまりも、眩い光の塔さえもいずれは朝露のごとく消えゆくでしょう。この儚い光景は、人の記憶の中で機に生き続けるのかもしれません。


六本木交差点

 

長谷川仁/六本木のガタガタ
六本木の街を視察した際に、交差点のプランターを植え替える小学生がいることを知りました。広く思われているであろうステレオタイプな六本木のイメージとは異なる、家族、商店街、生活といった六本木の姿に思い至りました。この作品はそこにあるはずだけどすぐには見えてこない「地域」と交差点を往来するする人々の表層的な「日常」を観察することを通し、本当の六本木が見えてくるのではないだろうかという思いからスタートしています。

 

アマンドの中にもいます。


国立新美術館に移動しました。

 

鴻池朋子/狼ベンチ
野生動物に深い関心をもつ鴻池にとって、狼は特別なモティーフのひとつです。近年場池は、害獣として駆除されたさまざまな動物の毛皮を展示に使っていますが、それもまた、当時モンゴルで年間何万匹も殺されていたという狼から始まりました。日本の狼信仰をはじめ、世界各地の神話や宗教に登場する食は、日本の山間部の生態系の専要な要素だったにもかかわらず、有害な動物として絶減させられました。しかし狼は、高度な社会性をもち、遊ぶことに貪欲な、愛情深い動物であり、遠吠えでかなりの意思疎通をすることもできます。《狼ベンチ》に座って狼の目線を獲得し、鴻池がパフォーマンスで試みたような遠吠えをしてみてはどうでしょうか。世界に臨む感覚が別新され、一匹の動物としての経験が始まるかもしれません。

 

うらあやか/蜂と関わろうとする身振り(適正な関係は壊されてしまった。)
人間が熊蜂と関わりを持とうとする、その様子がダンスのように記録された連続写真を、ビルボード広告の形式で屋外展示します。
近づきあう人と蜂の身体は、それぞれが嫌がってかわしあったり、かわした結果同じ方向へ動いたり、時にバランスを崩したりします。
他者と適正な距離を保とうとするとき、互いが触発しあうことで生じる関係性について、国立新美術館の過去と現在を象徴する2つの建築のあいだで問いかけます。

 

鴻池朋子/陸に上がる
鴻池は脚を「移動する乗りもの」と捉えています。幼児期のお絵描きに一度は現れる、頭と足だけの頭足人に似た造形は、初期の絵本「みみお」(2001年)の主人公や、小さな民虫と女の子の足のハイブリッドなど、かたちを変えて帰り返し取り入れられてきました。脚は、移動の根源的な手段であるからこそ、人間による分類や体系化の境界を越えていく力強さの象徴ともなります。一方、大鹿の解々しい角と艶かしい女性の脚が滑らかに接続する(降にあがる)には、生命の誕生をうながす濃厚な官能性も顕著です。台風で破壊された 2017年の最初のバージョンは、能登半島最北端の崖、いわば海と陸の境目に設置されました。海で育まれた生命が、やがて陸へ上がるという進化の長いプロセスを連想することができます。

 

鴻池朋子/武蔵野皮トンビ
鴻池朋子は、人間のための表現活動として閉じた体系であるアートに強い意識改革を求め、芸術の始まりに立ち戻って人間がものをつくることへの問い直しを試みてきました。人間は、先史時代より動物を狩って食用にし、皮を被服としてまとい、また神様への捧げものとしてきました。「ナイフによって切り裂かれた動物の皮は、今はなめされてにおいもなく、こんなにきれいになっている。けれど最初はナイフで切られて、ある部位を食べられたり、道具として使用されたり、人間が生きていくために使われてきたものです。」と鴻池は語ります。鴻池明子にとって、皮によってアート作品を制作することは、こうした原初的な関係性の表現であると共に、人間の自然に対する介入や暴力を思い出させることだともいえるでしょう。アトリウムに大きく羽ばたく(武蔵野皮トンビ>は、人間と動物/自然の関係性を思い出させてくれます。これらの作品は、資本主義の下では商品化されない切れ端として捨てられる運命であった皮を用いて作られています。それは、自然は人間の営みを超えた存在であり、商品化のためにあるのではないことをも伝えてくれます雨風と陽光によって色や形を変えてきたトンビは、自然は時と共に変化することを観る者に改めて教えてくれるでしょう。

 

鴻池朋子/物語るテーブルランナー
鴻池は、美術や美術館をめぐる制度を問い直してきました。美術や工芸の下位に置かれがちな手芸の「未成熱で破壊的なカ」への着目もそのひとつです。(物語るテーブルランナー)は、2014年から国内外で続けられてきた手芸を中核としたプロジェクトです。旅先で個人の物語を聞き取った鴻池が下絵を描き、語り手たちがそれをランチョンマットに仕立てます。愉快な話から悲しい話まで、ありふれた日常から非日常の不思議な話まで、さまざまな個人の物語が、語り、聞き、描き、縫い、見るといった行為とともに、さまざまな人の間を通過していきます。
最終的に(物語るテーブルランナー)として繋げられたとき、土着性を帯びた集合的な記憶のような、大きな力強い物語が立ち上がってきます。

 

築地のはら/ねずみっけ
「INACT View」シリーズ2回目となる本展では、目を引くビビッドカラーのねずみが館内の様々な場所に出します。メイン展示として、エントランスロビー中央の2つのコンクリートコーンを含むカフェスペースと乃木坂駅からの連絡通路という2つの空間にプロジェクションマッピングを展開しました。美術館を訪れた来館者がふと目を向けると、動くねずみの家を意外な場所に発見することができるでしょう。ねずみは黒川建築の個性的な横造物の上を伸び伸びと動き置り、空間全体へと視線を誘ってくれます。

 

 

展示の他にも演奏やパフォーマンスなど色々あるので、また次回も行きたくなりました。

 

 

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