tokyo.sora(γ版)

久々に、ブログ内の整理が進んだのでバージョンを上げます。日々のことを徒然と。映画の感想が多いですが、決して映画ブログではありません、 坂探索は、ケイゾク

坂東三十三観音 第11札所 安楽寺

先々週(6/22)の土曜のこと。
久々に、坂東三十三観音巡りに行ってきました。
前回の第10札所正法寺から3年8ヶ月ぶりの坂東三十三観音巡りです。

tokyosora.hatenablog.com

 

忘れていたわけではないけど、なかなか行くタイミングがなく、ようやく行けるタイミングで行ってきました。最初の計画では、吉見町営バスで行こうと思っていたけと、予約の必要なデマンドバスに切り変わってしまったので、色々と考えた結果、東武東上線東松山駅から鴻巣免許センター行きのバスに乗り、百穴入口で降り、そこから徒歩で安楽寺に向かい、そして安楽寺から熊谷市ゆうゆうバスひまわり号を小八林原から乗り、熊谷駅南口に行くというルートを考えていましたが、実際は下記のルートです。

 

f:id:hiro-jp:20190708122720j:plain東松山駅<徒歩>吉見百穴を経由して安楽寺<徒歩>小八林境<熊谷市営バスひまわり号>熊谷駅南口

 

f:id:hiro-jp:20190622112233j:plain東松山駅
レンガ造りなので、どことなく東京駅をお思わせます。
東松山市はオランダヘルダーラント州ナイメーヘン市と姉妹都市提携をしているので、レンガ造りの街並みをイメージしたそうです。
本来ならば、東松山駅から百穴入口までバスでいくつもりでしただ、うっかり乗り過ごしてしまい歩くことに。

 

f:id:hiro-jp:20190622115418j:plainこんもりとしている山は、松山城跡です。
そこに、山門が見えるのは、岩室観音堂です。
松山城
この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財です。
城史は、古代にさかのぼると言われるが、一般的には鎌倉時代後期の新田義貞陣営説、応永年間(1394〜1428)初期の上田左衛門尉説、1416年(応永23)頃の上田上野介説などがある。
この城が天下にしられたのは、天文年間(1532〜1555)から永禄年間(1558〜1570)のことで城を巡って上杉、武田、北条の合戦は有名である。
後に、1590年(天正18)に豊臣勢に攻められ、落城している。
その後、松平家広1万石の居城となったが、1601年(慶長6)に浜松に転封された後に、廃城となった。

 

f:id:hiro-jp:20190622115730j:plain岩室観音堂
弘法大師が岩窟を選んで、観音像を彫刻して、この岩窟に納め、その名を岩室山と号した。
松山城主が代々信仰していたが、松山城落城の際に、全ての建物が焼失したと言われている。
現在の御堂は、寛文年間(1661〜1673)に龍性院第三世堯音が近郷の信者の協力を得て再建したものと伝えられている。
御堂の造りは、懸造り様式で江戸時代のものとしては、珍しいです。

 

f:id:hiro-jp:20190622115832j:plainさらに歩くと、日本一の横穴古墳群吉見百穴見えました。
読み方は、『よしみひゃっけつ』ではなく『よしみひゃくあな』です。

 

f:id:hiro-jp:20190622120320j:plain吉見百穴
「百穴」の名が文献に見られるのは、江戸時代中期には「百穴」の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われる。
1887年(明治20)、帝国大学院生だった坪井正五郎氏によって大発掘が行われた。当初、コロボックル人の住居として作られたもので、後に墓穴として利用されたものであると発表された。
しかし、大正時代になると考古学の発達によって、古墳時代後期に使者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかになってきました。
現在確認されている219基は、日本一の規模を誇る横穴古墳群です。
また、最低部の二つの横穴にヒカリゴケがある。このコケは、山地に多く平野にあるのは、植物分布上きわめて貴重とされ国指定天然記念物となっている。

 

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f:id:hiro-jp:20190622120610j:plain時間がないので、ここは外から見るだけで、先を急ぎます。

 

f:id:hiro-jp:20190622122010j:plain途中にあった庚申塔
「宝暦七丁巳正月吉日」とあります。

 

f:id:hiro-jp:20190622133414j:plainようやく今回の目的地。
坂東三十三観音第十一番札所安楽寺
岩殿山安楽寺は坂東十一番札所で、真言宗智山派に属し古くから「吉見観音」の名で親しまれている。
今から約1300年ほど前、 行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのが始まりと言われている。平治の乱後には、源範頼がこの地を領するようになり、本堂と三重塔を建立したと伝えられるが、天文年間(1532〜1555)の上杉憲政北条氏康の松山合戦に際し、すべての伽藍が焼失。
現在の本堂は寛文年間(1661〜1673)に再建されたものです。
仁王門は1702年(元禄15)に再建された三棟造りの八脚門という建築様式をもち、内部に仁王像二体を安置する。

 

f:id:hiro-jp:20190622133624j:plain本堂
五間堂の平面をもつ密教本堂で、江戸時代前期の建築様式を伝える貴重な遺構である。
また、堂内の欄間には左甚五郎の作といわれる「野放しの虎」も納められている。

 

f:id:hiro-jp:20190622134942j:plain三重塔
杲鏡方法印により寛永年間(1624〜1645)に再建されたものです
この塔は、総高24.3メートルで全体的に簡素な意匠ながら和様様式で統一された江戸時代初期の特徴をよく現しています。
塔建築の少ない関東地方において江戸時代初期の塔は、県内に三塔現存していますが、その中でもこの三重塔は当代の様式をよく伝えている重要な建築物です。

 

f:id:hiro-jp:20190622140425j:plain安楽寺御朱印
安楽寺は、なかなか立派な建物でとてもよかったのですが、この日はこのあと大雨の中、1時間近く熊谷市のバス停まで歩き通しました。

 

f:id:hiro-jp:20190622142316j:plain紅葉の名所である八丁湖。
空は比較的明るいですが、すでにこの時は大雨です。
当然、人気はないです。


いよいよ、坂東三十三観音の埼玉編も残り一つです。

 

 

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